〈聖書の言葉から〉

 

               「神の天地で楽しむ」

                   箴言822節~31

                 ヨハネの黙示録211節~4

 

 降誕前節に入りました。キリスト教会の暦はクリスマスを思う季節に入っていきます。降誕前節には、イエスさまがこの地上にお生まれなさる前に書かれた旧約聖書から説教を聴くように、聖書日課が組まれています。神さまは救いの業をどのように進ませてくださっているのか。神さまの創造の御業、愛、それにもかかわらず神さまに背いていく人間の罪、その人間を赦そうとなさる神さまの慈しみ、それらを旧約聖書に聴いてまいります。

 

 箴言8章には、「主は、その道の初めにわたしを造られた」とあります。この「わたし」というのは、「知恵」のことです。「知恵」は、神さまの創造の業の初めから、神さまと一緒にいた、と自己紹介します。まだ、大地も、水も山々もつくられる前から、わたしは存在していた、と。

 

 この「知恵」は、神さまがこの世界をどのようにお造りになられたかを、間近に見ています。神さまが混沌の中から天地をおつくりになり、海に境を定め、大地を定められたのを見ていました。そして、「御もとにあって、わたしは巧みな者となり 日々、主を楽しませる者となっ」たと記されています。「巧みな者」というのは、建築家とか芸術家とかデザイナーのような役割、ということです。この天地がつくられたとき、知恵は建築家やデザイナーのように腕を振るって、神さまの業を共に担い、神さまを楽しませていた、というのです。そして、神さまのつくられた世界を、人々と共に楽しんでいた、とあります。

 

 それはすばらしい世界です。神さまが天地を造られたとき、神さまは楽しんでいらっしゃった。そして、そのつくられた世界で、人間たちもまた楽しんでいた。聖書ははっきりとそう告げます。神さまのつくられた世界はすばらしいのです。

 

 今、私たちの世界はどうでしょうか。神さまを楽しませ、自分たちも日々楽しい、そのような世界でしょうか。神さまがつくられた世界を、私たちはあまりにもないがしろにしているのではないか。私たちは神さまを楽しませることなど、とてもできていないのではないか。

  

 『すべては神様が創られた』という絵本があります。文章を書いた奥田知志さんは、ホームレスの人の自立支援をしている抱樸というNPO法人の理事長で、福岡のバプテスト教会の牧師です。この本には神さまの創造の御業と、それを踏みにじる私たち人間の行為が記されています。「手は、武器を持つためではなく、奪うためでもなく、だれかを抱きとめるため、支え合うために創られた。」私たちは、神さまがどのように世界をお造りになられたか、今一度しっかりと確認しなければなりません。私たちは戦争をするために、人を否定するために、憎しみ合うためにつくられたわけではありません。神さまのおつくりになった世界で楽しみ、神さまにも楽しんででいただくためにつくられました。今のこのままでよいはずがありません。戦争は遠い国の話ではなく、神さまがつくられたこの世界の話です。

 

 黙示録は「最初の天と最初の地は去って行き」と記します。私たちの今ここにある現実の世界は去って行く時がきます。新しい天と新しい地が来る、すべてが新しくなる時が来る。そのとき、エルサレムは争いの都ではなくなる。拳を振り上げ、武器を取り、丸腰の人を平気で踏みつけて殺すような世界は終わる、と聖書は告げます。皆、神の民となる。神の天地を喜び楽しむ日がくる。必ず来る。それは私たちの希望です。そんなことは絵空事だ、とても信じられない。そう希望を失う時、私たちは本当に未来を失うでしょう。絶望の闇に囚われてはなりません。神さまの言葉は真実です。私たちはそれを知っています。皆で楽しむ日が来る、その日を待ち望みます。